2009年6月1日月曜日

「働き方」について考えてみた

A:自分のここでの働き方
B:企業などでの働き方(想像)

と、A・Bのシゴトへの、外部の人の関わりやすさ(=友人などのシゴト場への、参観or参加のしやすさ)
について考えてみた。


お金をその働きによって直接的に得るかどうかとかもそもそも違うし、
本当は比べたりできるものではないかもしれないけど、なんとなく思ったので。
Bの方は自分のあやふやな想像に基づいてなので、間違っていたら、指摘お願いします。

▼とりあえず比べてみる
□A:自分のここでの働き方=例えば農作業とかパン作りとか
・初めての人でもやってみることを受け入れる
 という事実がある。何でそれが可能か?

・プロフェッショナルなシゴトはできなくても、やったなりのモノができたり(できなかったり?)する。
・知られたらまずい情報は特にない

じゃ何でそれでいいの?
・自分たちで消費するものもあるし、商品にして売るモノもある。
うまくできなかったものは主に自分たちの消費分になる。
・「他」と「競争」はしていない



■B:企業などでの働き方(あやふやな想像)

現状イメージ
・いきなり外部の人が見たり、参加することはできない
(入っていけるのは、「選別」されたインターン生だけ、とか。中学生の「シゴト体験」とかそんな感じ?)

参加できない理由として、
・素人が入ってくるとシゴトのスピードが落ちる、もしくは止まる かもしれない
・外部の人にあまり知られたくない情報がある
ことがあるだろう。

じゃそれは何で問題か?

それは常に「他」と「競争」しているから。
減速したり、情報が漏れると、競争力が下がる。

何で競争してるの?
競争に勝たないと、利益を得られないもしくは利益が減ってしまうという状況があるから。


□Aの方は、友達や知り合いや家族が参加できる。
そうすると、「フダンどんなことをしてるのか?どのくらい大変なのか?楽なのか?」とかそれをやっている人のこととか、相対しているものとか が、少しは分かる。


■Bの方は、その人にとって身近な人である友人や家族も(身近な人が同じ職場であるとか、取引先であるとか、自分が直接店を営業している場合以外)そこに入っていくことはできない。見えない。
姿が見えないということと同時に間接的に本人から聞くことができる「情報」も、会社が規制しているだろうから、限られてしまう。


▼今の日本は、たぶんBの場合が結構多いと思う。
なんとなくだけど、これは「もったいない」気がする。

なんでかというと、
①自分に近い人に、自分の何かやってる姿を見てもらうこととか、自分に近い人が何かっやってる姿を見たり、一緒に体験したりすることって、けっこう重要なんじゃないか?と最近思うから。

そこを、だいたい週に5/7日の昼間の間は、相手に対してクローズしてしまうっていうのは、どうなんだろう?クローズすることは(会社的にではなく)個々人にとって、オープンにすることよりメリットが大きいか?
オープンにすることは、果たして「損失」なのか?

②また、全部が全部ではないだろうけど、オープンにした方が、立場の違う人からの視点・アイデアの流入という意味で、革新の可能性という意味では、はるかに高い気がする。(他のマイナスを無視できた場合)

外部からの視点の流入の可能性としては、派遣やアルバイトという形があるかもしれない。でも、その場合、お金がからむことが確定した参加の仕方だし、ある一定のシゴトを理解し、遂行する能力を有していると確定した人しか参加することができない。逆に、確定していない仕事には参加させてもらえない。


③ひとつひとつの企業的にはその時々に知られる情報がマイナスのインパクトと感じられるかもしれないけど、長期的とか、ひとつの企業としてじゃなく、業種とか業態として見て、とかだったらどうだろう?

今でも情報をどこまでオープンにするか、クローズにするかが自社の利益になるのか、とかそんなことはきっと考えられてるんだろうけど。「自社の利益のために」怖がりすぎてることって、結構多いんだろう。
もっと広い範囲の、「社会のため」(ってなんか大げさやけど、)ってなったら、オープンにした方がいい情報はきっと多いんだろうと思う。

今の企業や行政などのソシキはマイナス部分を隠しすぎていると思うので、もっと見せろよと言いたい。
これが実現すれば、徐々にそういうマイナス部分もなくなっていく可能性があるのではないだろうか。まぁ、一部なら、隠し続けることはできるかもしれないけど、体質的なところはなかなか隠しとおせるものではないかもしれないし。一般人の参観や参加を受け入れると、体質の改善が少しは進みそうだ。
情報の隔離とかも難しくなるだろうから、そうなると、今よりもさらに、どこまでが一つの会社なのか?という境目が消えていくのかもしれない・・・・



▼家庭訪問、授業参観があるなら、そのもっと広い「会社訪問」「オフィス参観」みたいなのが専門的知識とかを特に有していない人に対してもできてもいいんじゃないだろうか。

でも、今は、参加を受け入れるにも、参加してみるにも、お互いに、
時間的な余裕があまりないんじゃないかなーと思う。
時間キツキツで競争してるから。
もしくは参観とか参加されると都合が悪いから。

もうちょっと速度の加減とかができて、そこに新しいものを試す「ゆるみ」というか余裕を作ってみるのもおもしろいんちゃうかなぁ。

そしたら生み出されるであろうものが、今は、「その時」の「スピード」を意識するばっかりに、失われてる気がするわけです。  でも、こういうゆるみを、どんな形にしろ実践してるとこはあるだろうなきっと。

また、プロフェッショナル・専門的ということが、
「自分がそれをうまくできるかどうか」 だけじゃなくて、
「いかにその分野のことに関して素人な人の意見や考え方から、そのシゴトに関して「いい」部分を拾い出せるか?」ということももっと問われていいと思う。
これは、1つのことについてだけやるのに、1つのことだけ知っていればいいっていうより、他の範囲のことも知ってたらよりイイっていうことにつながるのかな。


なんか長くなって、うまく整理できてなくて、読みにくいですけどごめんなさい。


▼「どういう状態のセカイが豊かなセカイか?」を考えたときに、
(農業だとか、サービス業だとか、そういうのは関係なく)
Aの、「外部の人も混ざる」ということがもっと認められたセカイの方が、自分は好みだな、と思います。

今はのシャカイは、「成果物」は、世の中に消費される対象として出回っているかもしれない。
でも、その「過程」は出回ってはいない。その「過程」は、消費することができるモノではないが、もっとおもしろいものなんじゃないかなぁと思う。


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